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桜姫

  • Posted by: ひろむ
  • 2009年8月 2日 23:50
  • 歌舞伎

気がつけば8月。シアターコクーンへ『桜姫』を観に行った時にはまだ7月だったはずなのだが...確か7月28日夜の部だ。終演後の舞台挨拶は予定されてなかったそうなのだが、6月に現代版でマリア(桜姫)を演じた大竹しのぶ女史が観劇に来ていたので、その紹介と短い挨拶があってラッキーだった。大竹しのぶ、頭ちっちゃい。女優さんて体のパーツの作りが一般人と違うんじゃないだろうか。すぐ近くに座っていたのでマジマジと見てしまった。

さて『桜姫』。前回2005年は福助がすごく良かったのだが、今回の桜姫は七之助である。若い。どう考えても、周りの面子から思えば存在感が薄くなりそうな、喰われてしまいそうな心配をしてしまう。相手役は父・勘三郎。しかし『桜姫東文章』なら、やはり主役は桜姫であるべき。どんな芝居になるんだろう?

...七之助の芝居だった。素晴らしかった。コクーン歌舞伎なので、舞台装置の工夫、脚本の工夫、音楽の工夫、照明の工夫などは、ある意味「あってあたりまえ」になっていて、そうそう何が出ても驚かない。実際、今回はこのところ中村屋が凝っている「羅漢席」もどきが舞台後方2階部分までぐるっとあったり、台車に乗ったままの芝居部分があったり、説明部分を笹野高史演じる見せ物師が喋くったりしてくれる。音楽はオペラが最初と最後で使われていた。演出としては、ほんの短時間だけ勘三郎が橋之助と入れ替わって権助を演じた部分があって、おやと思ったら後のシーンで声色だけ勘三郎を被せて昔の罪業を喋らせていて、なるほどそのためかとわかったり。(歌舞伎では、酔った権助が自分でぺらぺら喋るのだが...幽霊が無理に喋らせたとする方が理解し易いとの判断?)。それと権助が殺された直後の清玄、権助の兄弟がどちらも亡霊となっている場面はともかく、吉田家を再興した桜姫を寿ぐ場面でその二人の幽霊がもがいているのは余計だった。そんな小手先の細工みたいな演出は要らない。そこまで芝居が行き着いている時点では、見ている者としては、そんなことより七之助、である。

7月の最初の頃、舞台が始まったばかりの頃に、彼がどんな芝居をしていたかは知らない。私が見たのは楽日の前々日だ。そこまで、自分より明らかに格上の、ベテランの、うまい、役者達に囲まれて一ヶ月。彼がきっと日々成長したのであろうことは想像に難くない。気品があり、でも浅はかでもあり、時に凄みもあり、色っぽくもあり、かわいくもありの、本当に素敵な桜姫だった。女郎に売られて蓮っ葉な言葉を仕込まれて、それでも姫は姫という品が保てていて、最後の場面の御家再興も無理なく納得。もちろん勘三郎、橋之助、扇雀、彌十郎などがしっかりと支えてこそ、活きることではあろう。それでも、この芝居は桜姫が魅力的でなければ面白くもなんともない。そして七之助の桜姫は魅力的だった。これは七之助の芝居だ、と思わせるに十分だった。

そして桜姫に取り憑く清玄だが、この人がどうしてそこまで姫に思いいれるかが、実は今回の芝居を見るまでは納得できたことがなかった。例え自分が昔心中し損ねた相手の生まれ変わりだとしても、現在の自分と姫との間にはほとんど交流は存在していなかったはず。なのに幽霊になってまで付きまとうか?その最大の、というかほとんど話の根本に関わる設定が、今回初めて腑に落ちた感じだった。序幕で、思い切りよく飛び込んで死んでしまう白菊丸と「一緒にって言ったのに」と残されて嘆く清玄。そこから川原でさらし者になりながら、聖職者である身を脱ぎ捨てるのに道理を逸脱していく清玄までが、距離がなくて理解し易かった。弱さが無理をして論理を破綻させ、破綻した論理を繕うために生じた無理が妄執になっていくような。そこに兄弟の因縁や吉田家との因縁が絡んで、すごくキレイにクモの巣が形成されていくのを見た気がした。前月の現代版と相通ずるものとして七月の芝居は作られているそうだから、現代劇としても納得しやすいようにしたのかもしれない。いずれにせよ、これは脚本の整理や演出だけでなく、清玄を演じた勘三郎の巧さもあってのことだろう。

いい芝居を観た、と言いたい。

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